THE NEWSについて

「テレビ・新聞・週刊誌などマスコミを糺す情報新聞The News」は、創始者である“故・柴崎博光”によって1999年3月20日に第1号を発刊した。

その後26年間の風雪を経て現編集長“河原龍三”に至るまでの経緯と、柴崎、河原の「人となり」について認める。


【創設者・柴崎博光の人となり】

柴崎は昭和16年6月、横浜市保土ヶ谷区に生まれた。慶應義塾高校に進むが、米軍基地に無断侵入したり、喧嘩した朝鮮人が集団で家に押しかけて来るなど、生来のやんちゃ者であった。スポーツ万能で、東都大学リーグの名門「亜細亜大学野球部」に入部し投手として活躍、阪急ブレーブスからスカウトの話がきた。1964年卒業と同時に「読売新聞大阪支社」に勤務、その後、株式情報新聞「証券ニュース」記者を経て、1972年「日刊カンコー新聞(現在廃刊)」に編集長としてスカウトされる。

25年以上にわたり、自ら日本各地を取材で駆け巡る現場主義のジャーナリストであった。日刊カンコー新聞の社主“故橋本嘉男氏(日本地方新聞協会会長・当時)は政財界とも広い交友関係があり新聞業界では知る人ぞ知る著名人であったが、気性の激しい柴崎とは「愛憎相半ば」してしばしば対立することがあった。

1999年2月に日刊カンコー新聞を退社し、自身が抱くジャーナリズムの真髄を求めてThe Newsを立ち上げた。

【The News創立の経緯とその後】

The Newsは2000年1月5日号から月3回発行(5日、15日、25日)の定期刊行新聞として、同年3月29日付で郵政省(現総務省)より第3種郵便物として許可が下り、以降正式な公共刊行物として認知された(諸事情あって現在取り消し中)。

一般向けの新聞ではなかったため、当初世間ではあまり知られることはなかったのだが、その鋭い舌鋒に、国会議員をはじめとする大物政治家や行政省庁、検察庁、弁護士などからも多くの反響が寄せられ、テレビ週刊誌などのマスコミ以外からも徐々に認知を受けるようになった。

一般のメディアが報じない裏情報やニュースを徹底取材し、耳目を引く独特の見出しによって、既存の紙媒体と一線を画する“紙面のスタイル”が業界に知れ渡り、ここに柴崎のジャーナリストとしての独自性と進化が確立された。

The Newsの認知度が知れ渡るにつれ、記事の内容によっては政治家や企業、果ては反社会的組織などから記事刺し止めの圧力が度々かった。しかし柴崎はいかなる圧力にも屈せず自分の信念を貫き通した。

一貫した頑ななその態度はマスコミ同業者の多くから高く評価される一方、報道の中立を保つために企業からの広告を一切受けなかったことで、経済的な事情から発行の継続が徐々に困難になり始めた。

その後、本人の高齢に加え持病の糖尿病が悪化し、脳梗塞で倒れて以降9年間の過酷な透析・闘病生活を送ることになった(2022年12月逝去)。

The News継続の危機と思われた時、柴崎の長年の友人であり2012年頃から編集の補佐をしていたジャーナリストの河原龍三が編集長を引き受け、後継者として現在に至るまでThe Newsを牽引している。・・・〈以上、藤倉氏の“柴崎博光氏を偲ぶ会(2023年9月)”寄稿文より抜粋し編集〉

河原とはどういう男か、ありきたりの履歴書ではなく、本人が語る本人の生き様をその儘、掲載する。


【河原龍三の生きた時代】

1;「幼少期」

The Newsの編集長「河原龍三」は朝鮮動乱が始まったGHQ占領下の昭和25年8月、北海道の炭鉱町「古宇郡泊村茅沼大字番外地」で小学校教師の長男として生まれた。

泊村といえば、今は北海道電力「泊・原子力発電所(停止中)」で有名であるが、歴史を辿れば泊村茅沼炭鉱は、日清日露戦争における軍需物資石炭の国内生産拠点(安政3年に発見され、英国人技師ガールによって本格採掘)」として、明治における「殖産興業」の重要な位置づけにあった(現在は廃坑)。

2;「小・中・高校時代」

父の転勤により、小樽市にほど近い「ニッカウヰスキー」と「りんごの町」余市町で、小学校に入学。

父は中学校教員に在籍しながら、「北海道教職員組合(北教組・書記長)」を兼任した。北教組内部の右派、左派の対立が影響してか、小・中学校の教員は「河原少年」に対し「えこ贔屓」若しくは「嫌悪」の両極端な感情剥き出しで接した。

そのせいもあり、高校は学区外の小樽潮陵高校を受験した。個性のある教師や道内各地から集まった素晴らしい友人達にも恵まれた。中学時代から励んでいた柔道を続けるため、柔道部に入部した。小兵ながら一年生で初段、二年の秋には二段に昇格、今なお付き合いが続く同級生や後輩の柔道部員も少なくない。

煙の出る「C62機関車列車」に乗って、四季折々の車窓の景色を眺める40分の汽車通学は、今では得難い思い出である。日露貿易での繁盛が寂れたとは言え、坂の街「小樽」の運河や煉瓦造りの倉庫は、淡い初恋の思い出と共に今も懐かしい残影として消える事はない。

昭和45年(1970年)早稲田大学に入学。折しも「ベトナム戦争」が激化し、反戦平和を唱える「学園紛争」の真っ只中であった。

御多分に漏れず「左翼小児病」に罹患した河原も「義を見て成さねば、勇無きなり」とばかりに、左翼活動の渦の中にのめり込んでいった。大阪で「万国博覧会」が開催され、巷では「こんにちは~♪、こんにちは~♪、世界の国から~♪」と三波春夫の陽気な歌謡曲が流れていた。

同じ年の11月25日、憂国の士「三島由紀夫」が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自決をした。時代の混迷を肌で感じていた「左翼の河原」は、「右翼の三島事件」に衝撃を受け大いに混乱した。

三島由紀夫や、吉本隆明、江藤淳、など当時流行りの著作や仏教の解説書を読み耽ける茫漠とした日々の中、学内紛争は激しさを増し、いつしか大学を中退していた。

時は高度成長の最盛期、四半世紀前のあの「屈辱的な敗戦」など、まるで無かったように日本は「明日の豊かさ」を求めて驀進していた。

3;「生き抜くための生活」

仕送りは途絶え、思想的にも生活面でも拠り所を失った河原は、日々を生き抜くためアルバイトに励んだ。深夜勤務の「ビル宿直員」や、キャバレーの「照明係」、土木建設工事の「飯場生活」も経験した。

時間が許せば古本屋を巡り…多少の金が出来ると登山具を買い揃えて、深田久弥の「日本百名山」を携え山に登った。都会の街角ですれ違うサラリーマン達とはまるで違う生き方に、「一抹の不安」と「無頼漢としての自負心」が混在していた。

同じ頃、70年代安保闘争に敗れた同世代の活動家たちは一層過激化し、地下に潜って牙を研いていた。三菱重工爆破犯の大道寺将司(釧路湖陵高校)や日本赤軍の佐々木規夫(小樽潮陵高校)は、同郷出身の当時の河原の心に突き刺さる「切なき反逆者たち」であった。

4;「狂乱のバブル経済と、その崩壊」

70年代も後半に差しかかった頃、河原は中央線の高円寺駅近くに戸建て一軒家を購入し、結婚もした。

友人が高円寺で設立した「業務用カラオケ販売会社」に誘われるまま参加して、それが時代の波に乗り大当りしたのである。コインカウンターが付いて、8トラ・カセットテープで曲を流し、エコーの入ったマイクで歌うだけの代物だが、生産が追い付かない程に売れた。カラオケを売り金を儲けるために、深夜までスナックやバーに入り浸たり、生活も信条も一変した。

カラオケはその後も画面の出るレーザー・ディスクへと進化を続けて、バブルの時代に入ってもブームは収まらなかった。

15年程過ぎ、バブルの崩壊の兆しが見え始めた1995年、河原はカラオケ会社の持ち株を全て売り払い、「ファンド系ベンチャー企業」の設立を目論んだ。

「阪神淡路大震災」でスタートした1995年は激動の年であった。「オウム・サリン事件」、「山一證券の破綻」、そして「阪和銀行」、「北海道拓殖銀行」、「日本長期信用銀行」、「住専」などの連続倒産に象徴される“不安な時代の幕開け”の年であった。

当時も今も日本は欧米やアジア諸国に比べ、「ベンチャー系ファンド会社」の経営は「金融商品取引法」、「出資法」、「外為法」などによる規制が厳しく、法律の隙間をかいくぐる様な冒険的な試みであった。赤坂に本社を置き、新会社がスタートした。「投資事業組合」の名目、若しくは「物品販売」の形態を取って、ファンドを集め新たな事業計画に出資する…後に堀江貴文、村上世彰なども渡った危ない橋である。

しかしそれは、既得権益に凝り固まった金融業界の末期的症状を打開し、日本経済に新たな活力を創出する事業であると確信しての事でもあった。

この時期、「ベンチャー・ファンド」を装い、詐欺まがいの金集めをする輩によって事件となるケースも多発した。

河原のビジネス手法は国際法の専門家や弁護士、海外の証券会社(SK証券)などと契約し、国内法に抵触しないよう海外にも拠点を設けた。「投資契約書」「売買契約書」を別立てで海外の企業と締結し、法律の網の目を縫うような合法的な事業展開を続けていった。

大きな節目を迎えたのは、2008年に世界経済を震撼させた「リーマン・ショック」であった。その年コスダックに上場予定で、「第三者割り当て株」を引き受けた投資先の韓国のベンチャー企業が、3年以上に渡って凍結状態になり(2012年に上場)、大口投資家の一部が民事訴訟を起こし、訴訟総額は10億円単位となった。

結局は6件の民事訴訟を抱えたまま、会社は立ち行かなくなり国内外の支店もろとも閉鎖。河原龍三、還暦60歳にして人生最大の暗黒の日々が訪れた。

5;「邂逅と覚醒」

そんな身辺の状況を相談するため、以前から知遇を得ていた「無頼派ジャーナリスト・柴崎博光」の懐に飛び込んだ。「ヤヤコしい輩」の撃退方法や、金融専門の弁護士、国税庁に対抗する税理士などを紹介してくれ、緊急事態は少しずつ解決して行った。

糖尿病のインシュリンを持ち歩き、注射を打っては人と会い、また注射を打っては灰皿にいっぱいの煙草をくゆらせ鬼気迫る風貌で原稿用紙に向かう、そんな柴崎の日常に付き合う日々が何年か続き、いつしか師弟関係のようになっていった。

恩師・柴崎は依頼者に会う時には、最初は穏やかな笑顔で挨拶を交わし、いざ話を聞く段になると、眼光鋭く相手の目を見据える…ちょび髭が威風堂々として、まるで心の中まで見透かされている、そんな威圧感を感じる人物であった。

獄中の受刑囚から「冤罪を晴らし、身の潔白を証明するまで、死んでも死にきれない」といった内容の手紙をもらうと、日本全国どこにでも出かけ、接見の窓口で相手の話を充分聞く。そして徹底的に話の裏付けを取材を取り、公正にそれを書く。柴崎の側にいるうちに「金や名誉」に拘らぬ彼が、「無頼派ジャーナリスト」と言われる訳が、少しずつ分かってきた。

国家権力のみならず、メディアもその時々のさまざまな理由によって、常に間違いを犯すものである。マスコミや世間がどのように判断していようと、市井の人々の心に刺さった理不尽な悩みや苦しみに耳を傾け、そこに隠された真実を、緻密な取材で「正と否」を明らかにし、ペンの力で「見える言葉」として記事にする…柴崎が追及した「権力に阿らぬ、ジャーナリズムの神髄」、「The News」はそれを何処までも追い求める使命を託されている。